コロナが教えてくれた事 その1

コロナ騒動で、テレビ番組が変わってきた。

最近まで主流だった「バラエティ番組」が撮れなくなった。とりあえず雛壇に芸能人を密集させて、何となく撮影して何となく編集した動画を見せて、適当に出演者に話を振って、場を適当に持たせる。そういう、どうでも良いバラエティショーでは、誰かが特別に面白い必要もないし、誰かが特別に演技が上手くなくて良いし、歌のうまさも要らないし、カッコよさも美しさも何となくで良い。場が回れば良くて、適当にCMが入れば良い。回る事と、スポンサーへの忖度と、時間が浪費される事が重視されるだけの形式。回す事が重視されれば、自然、「対応」が上手い人間ができる仕事になる。場は人を作るので、回せるだけで強い主張がない人間が次々と仕事にありついた。出演者が入れ替われば良いだけの内容なので、情報が真実であろうがなかろうが、ただ笑えれば良い。回せば良いので、補助役が必須。アナウンサーに仕事を回し、アナウンサーはモデル事務所みたいな所が派遣する。テレビに出たい女の子が、アナウンサー志望となり、人気の職業となった。結果、何もしない名前のある芸能人が雛壇に座り、若くてキャリアのない若者は、動画ロケに使われて修行させられる事となった。そのうち、何もできないヤツばかりがただ喋るだけになってしまう。消費期限切れの芸能人は情報バラエティのネタ行き、となる。

テレビ局は、それを大切な情報を伝える番組にまで応用した。社会問題に焦点を当てた時は、バラエティ形式では処理しきれない深掘りが必要とされ、スポンサーへの忖度だけでは耐久性のない議論が必要となる。それぞれの問題は、単独に起きているように見えて、様々な社会背景を持つ。深く切り込むほどに、必ず誰かを傷つける。

そこを、政治家が利用した。コメンテーターに自分寄りの人間を配置させ、自分に都合の良い展開のままに押し切る事をさせながら、国民の目先が変わる切り口だけが必要なので、嘘か本当かわからない事がテーマとして増える。自然と、話題は素行の良くない芸能人やスポーツ選手、海外の政治家、そして、自分の政敵や自分の手下について、SNSで悪口が生まれればそれで良い。他を圧倒して自分の意見を通す人間が仕事を手に入れ、政治家は彼らを上手く抱き込み、利用した。そうして、ファシズムが生まれる温床となっていた。

バランスの悪い知識不足の番組と、何も知らない国民が出来上がった。

コロナのお陰で、「密集」が避けられるようになり、バラエティ形式が崩壊する。テレビ局は無理やり「リモート出演」で、どこで何してるのかわからん出演者を繋ぎ、画面と時間を持たせる事を頑張りだしたが、もはや無理だろう。だって、単独では何もできなくなってしまったのだから。

情報バラエティ形式も崩壊する。良くわからん大学の先生が毎日毎日、テレビでいい加減な意見を言う。本当の専門家を連れてきてしまうと嘘がバレるので、継続するほどに言葉がなくなる。

俺たちは時間を潰したくてテレビを見るのであって、テレビ局が時間を潰すことには興味はない。テレビ局は、ちゃんと取材して、真実を流せば良い。芸能人は、芸を披露すれば良い。そして、ギリギリまで追い詰められていたテレビは、YouTubeなどの動画配信に屈した。視聴者は、真実のない世界に、置き去りにされている。そこにあるのは、誰も助けてくれない世界と、何もしない政府だ。

コロナが変えたのは、テレビと政治と国民の関係だという話でした。次回は別の角度から、落書きします。

コロナと社会についての雑感

コロナで日本の社会は変わるかもしれない。当たり前が壊れて、当たり前じゃなくなるかもしれない。

行き過ぎたわがまま。コロナで家族が家に閉じこもると、家族それぞれの問題点が浮かび上がる。家事への向き合い方や時間の使い方、言葉の使い方。一番近い関係が、一番見直される必要があるとわかるはず。

わがままは、家庭の外にもある。趣味や嗜好品、もちろん性的嗜好まで、日常生活が継続している間はなあなあで見過ごされていた事が、はっきりと浮き彫りになるはずだ。

日本社会には、曖昧にされたままの様々な境界線がある。見えない差別や偏見がある。そういうものが全部、これから浮かび上がるだろう。

日常には、もう戻れない。良い意味でも、悪い意味でも。

俺たちは新しい生活習慣を創造しなければならないし、そのためには古いものを壊さなきゃならないのかもしれない。

細かい事については、そのうち書くよ。

便所の落書き

およそヒトの書いたものに優劣は無い。

新聞だろうが論文だろうが、「考え」を書いたものには上も下も無い。だから、俺の書く文章なんて、便所の落書き程度に思ってもらって結構だ。そう思って、このブログを開設することにした。

便所の落書き。俺が高校生の頃というのは、昭和の事だが、何故かあちこちにSEXと書いてあった。当時の俺はその行為に及ぶ際、何をどうすれば良いのか良く知らずに、単にムラムラしていた。

そのうち、ある事に気付いた。8日Xという落書きも多い事に。そして、誰かが落書きを上書きしている事に思い至った。

何が楽しいのか。

そう。この世には、何が楽しいのか分からない事に夢中になる人が多いのだ。そして、便所の落書き同様に、SEXも8日Xも等しく無価値なのだ。

ところが、なんでもかんでも優劣をつけたいバカもいる。自分の方が勝ってるとアピールするためなのか、他の考えや意見にマウントを取ろうとする。俺はそういう事に、興味はない。好きなら好きで良いし、嫌いなら嫌いで良い。価値がないと思われても、別に良い。

それを、これからいくつ投稿するのか分からん俺のブログの基本コンセプトとしよう。

便所の落書き程度と思って、読んで欲しい。

俺はSEXを8日Xと上書きすることも覚えたが、程なくして、飽きた。俺が思う以上にヤリたくて仕方ないヤツの情熱を意味のわからん言葉に変換するのが申し訳なくなったからかもしれない。

全ての事は、等しく価値があり、また、等しく無価値だ。

トイレの落書きには、「相合傘」も多かった。誰かと誰かの名前が書いてあると、ちょっと甘酸っぱい気持ちになるが、これがまた、片方の名前だけ書き直されてる事もあって、少し同情した。デスノートじゃあるまいし。書いた事が実現するわけじゃなし。

そもそも、他人の彼女に興味を持つとか、ちょっと分からん。俺は食べ物をシェアするのも、彼女をシェアするのも、どっちも嫌だ。仕事として誠意を持ってサービスしてくれる女の子には敬意を持つし、惚れたこともあるが、私生活で他の人の彼女に興味を持つのはややこしいので、したくない。

テレビを見ると、便所の落書きと大差ない事が多い。SEXを8日Xと上書きするレベルのものも多いし、不倫報道も多いし、悪口も多い。

全ての事は同程度に無価値なのかもしれない。