続エコバッグ

エコという名の商業主義。環境問題と言えば何でも通せると思い込む阿呆と、その阿呆の思い通りに動く阿呆の群れのおかげで、住みにくい社会が出来上がる。ただでさえ、消費税とかいう罰金を払わされて金を損しているのに、今度は袋も有料だって言う過剰要求。

お洒落なエコバッグを持って調子に乗る女どもを尻目に、普通に金を払ってコンビニ袋をもらう。何円払っても、エコバッグを買うよりは安いし、そもそもエコバッグだって消費財。結局はゴミになる。

しまいには、エコバッグを使って万引きをする奴まで出始めた。もはや万引き袋、である。

きっと、店が損してもエコ論者には関係ないんだよ。その程度の「自分さえ良ければ良い」という認識の連中がエコ論者の正体なのだ。

プリウス暴走させて事故を起こすジジイと一緒。わがままなエコ論者にはウンザリだよ。

エコバッグ笑

俺はエコとか偉そうに言うバカの言葉は全く信用しない。ゴミなんて、全てまとめて焼却場で燃やせば良い。個人がどんなにゴミを出さないように努力しても、工場から二酸化炭素は出るし、火山が噴火したり自然発火で森林や草原が焼けたらチャラだ。それよりも、ゴミを燃やす火力で発電すれば良いだけだ。浄水場の近くにゴミ処理場とスーパー銭湯を作って、ゴミをバンバン燃やして、電気を作り、風呂に入ればみんな幸せだ。あんなインチキなパネルを設置するアホをやる必要もない。

もう少し真面目に物事を考えれば、まともな社会になるのにな笑

コンビニ袋はもらう。プラゴミを詰め込んで捨てる為に。その袋が、まんま燃料だよ。ペットボトルも何もかも、全部燃料。エコバッグ?タダなら使うがね。

919

COVID19 Trackerというアプリによる、日本国内の死者数である。

コロナがどんな広がりをしたのかについては、メディアを当てにしない事にした。データよりも憶測や脅しばかりを前面に出すからである。

奴らもまた、便所の落書きだ。

919人には、それぞれの人生があったはずだ。それぞれの喜びも、悲しみも、怒りも。

数字になれば全てが分からなくなるが、919人には、きっとそれぞれの大切な人が何人かずつは居て、それぞれが別れを味わったのだろう。

およそ3万人が罹患して、919人が亡くなった。

便所の落書きも、人の死に対しては敬意を表するべきだろうと考える。

メディアはデタラメを報じ続けるけれど。

恐れの向こう側

暗闇を歩くのは怖い。「一寸先は闇」という言葉もある。知らない事は「恐怖」を招く。

未知に対しての対応には個人差がある。とりあえず挑むか、門を閉ざしてしまうかである。

門を閉ざした時の行動も多様である。事実を受け入れるか、受け入れないかである。

物事を受け入れられない時に、心を平らにするか、乱れるかもまた、分かれ道である。

乱れを受け入れるか、攻撃的になるかも人それぞれである。

「食わず嫌い」という言葉がある。挑戦せず、挑戦しなかった事実を受け入れるが、対象に対し心を閉ざし、過剰に拒否をする。

誰でも何かしらの具体事象について思いが巡りながらこれを読んでいる事だろう。

ひとつだけ言うと、俺は味見しないものは批判しない。試してみて何が駄目だったかを言いたい。便所の落書きにも、ポリシーは必要だ。

他人と距離を取れば、飛沫を浴びる可能性は低減する。だが、ゼロにはならない。透明なビニールを張ればウィルスを多少は防げるかもしれない。だが、お釣りは受け取る。ビニールの向こう側の人が触れた金は受け取るのに、商品は受け取るのに、ウィルスだけは受け取れない。

見えないのに。自分が既に店内のどこかで触れたかもしれないのに。

疑うことばかりではなく、確かな事から始めたい。まずは自分が持っているものを撒き散らさないためにマスクをする。自分の手を殺菌してから物を触る。買い物から帰ったら手洗いとうがいをする。買ったものを家で使う前に消毒する。

恐れる前に、できることをしたい。最大限どこまでやったかを確認して初めて、別の可能性がある。最初から外に原因を探すのは無意味に思うから。

発見?それとも露見?

気づかずに生きていたかもしれない。この社会には「個人事業主」という人生の選択肢があり、自分も気づかないうちにそれを選んでいるかもしれないという事に。

コロナの不況対策として、政府が打ち出した給付金政策。国民全員に一律10万円と決まる前、「フリーランス」という言葉が飛び交った。そこには、実に様々な生き方の選択肢があるということが、明らかになった。

フリーランサー。自由な生き方。だが、それは同時に「補償のない生き方」でもある。普段は良いだろうが、自然災害や今回のような疫病災害にはどこまでも弱い。一発当てれば大きいが、今回のように勝負の機会を失えば、無一文の暮らしが待っている。

キャバ嬢や風俗嬢などの女性たちは、全く誰にも守られない。客は当然名を隠して店を利用するし、本人も源氏名で働くからだ。羽振りの良い時は月収数百万円だろうが、「自粛期間」には当然、ゼロ。副業でやってる子はまだ良いとしても、専業の子は、何も無い。

フリーターと呼ばれる、アルバイトで生計を維持する人々もそうだ。コンビニの薄っぺらいビニール一枚の向こうにいる店員さんは、いつ来るかわからない感染者の影に怯えながらレジに立ち、Uber Eats のバイクや自転車が接触事故に巻き込まれるケースも少なくない。

自分の選択ならば「自己責任」という言葉も当てはまるかもしれない。だが、成り行き上仕方なくそうなる事もあるのが今の社会だ。

格差は残酷だ。そして、格差は広がっている。

経済格差は教育格差を生み出して、遺伝する。それを是正する仕組みはあまりにも薄い。薄情だと言っても良い。

平成の間に日本人の中に拡大した格差は、コロナ騒ぎで白日のものとなった。政府はほとんど無策で、手を差し伸べようとしない。だが、ウィルスはそこかしこでとりつくチャンスを狙っている。

次の国政選挙はいつ実施になるのか。彼ら弱者には選挙権があるのか。もちろん、買い物をしたら税率は同じ。非情な10%だ。

コロナで明らかになった現代社会の暗部。ボーッと生きてると、わからないだろう。

 

自粛ポリス?

何度も言うけど、このブログは無価値な落書きだ。学校の机や便所の壁に書いてある程度に価値がない。だが、このブログ以上に無意味な事をやってる連中について、今日は書いておきたい。

ネット上で特定の誰かを吊し上げるような事は嫌いだ。別に、トランプや安倍晋三なんかを批判するっていうならば別に良い。権力者だからだ。俺が今話題にしてるのは街中で普通に暮らしてる私人に対する誹謗中傷をしている警察気取りの連中の事だ。

なぜ、すぐに身元を特定してやろうとするのか。酷い場合だと、いじめを苦に自殺した子どもや、いじめをやった子どもや、果てはその家族やらその勤め先まで晒そうとするから、始末に負えない。去年の煽り運転の犯人特定!とか、全く無関係の人が被害に遭った。訴訟ものの酷い行為だよ。

今回のコロナは、そういう醜い連中の存在をハッキリと炙り出した。街で開店している飲食店に落書きをする行為は、ヨーロッパの国でもあったようだが、それに憧れでも抱いたのか(そういうヤツらに限って西洋にかぶれてる笑)、細い商売をギリギリで続けてる店に貼り紙をしたり、酷い場合だと投石までしたりする。他県ナンバーの自家用車にキズをつけたりするヤツもいるらしい。正直言って、傷つけられたクルマの方が傷つけた人間よりも価値がありそうな場合さえある。

政府がしっかりしないからそういう奴が蔓延るってのはあるが、度が過ぎてる。日本のムラ社会の、噂好きな連中の醜い部分がギュッと詰まった純度の高い嫌味な行為だよ。

またそれを「自粛警察」とか「自粛ポリス」とか、名前をつけるヤツがいるものだから、そんなクズどもに「立場」が当たってしまう。

そのうち名刺でも作り出すぞ、あのバカども。

昔はヤクザがそこらを彷徨いてたから、そういうバカはチョロチョロできなかった。裏のものは裏でケジメがついてたから。今は暴対法があってヤクザが表で動けないのを良い事に、そういう表じゃ何もできないような腐れ外道が幅をきかせてる。

日本の中途半端な管理社会は、いつまでも消えない変テコな詐欺行為だけでなく、こういうキチガイ野郎どもを生み出してしまった。

全部リセット、したら良いんじゃないのかね?

今回は、コロナの話から、番外編でした。

コロナが教えてくれた事 その2

経済は崩壊するかもしれない。いや、政府が適切な支援をしないからとか零細企業が多いからとか、そういう事じゃない。

コロナによって「価値」そのものが崩壊する恐れがあるかもしれないからだ。

我々の社会においては、全ての行動に価値がある。今、俺がこの落書きを書いてるブログだって、そこに広告を出す企業が金を出すから、誰かに届く可能性があるのであって、彼らが手を引けば、誰も読まず、部屋でカレンダーの裏に書いてる本物の落書きと違いがなくなる。

彼らの出す広告料が何を原資にしているのかも知らないが、何らかのビジネスであろう。

供給する側は、需要を求めている。

今、街中には、客を求めるビジネスが溢れている。三密を避けて巣籠もりしている人々は、街に出かけてやってみたい事を我慢しているが、その我慢は、客待ちのお店の人々の我慢とは比較にならないだろう。

だが、その関係性もある時点で変化するだろう。美容室であれ、定食屋であれ、居酒屋であれ、パチンコ屋であれ、金のためだけに客待ちをしている訳じゃない。そもそも、全てのサービス業は、客に満足感を与えている。そして、客は満足感を得るためにそうした店に足を運ぶ。

人と人が関わらなくなれば、成立しなくなる活動は多いだろう。電車で出勤してオフィスに行き、終業まで働き、電車で帰るまでに、人は一体何人の人々に会うだろう。その出会いの全てが無くなるとしたら、どうなるのだろう。

「リモート」は、便利だ。だが、あくまでも「相手」が必要だ。

商売が細くなるから、国が金を出せば良いという議論がある。国には借金する事で国民を救うことができる。カネを刷れば人々は救える。だが、一度細くなったビジネスを元に戻すことはできない。やはり客が居ないからだ。

そして、国債をバンバン発行して暮らしを豊かにする向こうには何がある?労働力が無い。使う金はあっても、人が居ない。

仕事は必要だ。カネでは生きがいは買えない。生徒に教師が必要なように、教師には生徒が必要だ。

人には人が必要だ。当たり前のようだが。